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★『浜の家』さん(小野寺さんご夫婦)
浜の家さんがあった場所は、津波の後に火事が起きた鹿折地区にありました。
震災の日、御主人はお店に、奥さんはお店と渡り廊下で繋がっている自宅にいたそうです。
御主人は仕込みの最中、奥さんは自宅でお掃除をしていました。
そこに地震が起き、奥さんはお隣の奥さんが悠長に割れたガラスを掃いている姿を見て「奥さん!危ないからうちの2階のロフトに上がって」と誘い、御主人にも「お父さんも早く自宅に戻って!」とベランダ越しに声を掛け、御主人が自宅に移ろうとしている時でした。
10m以上の屏風のような津波が目の前に現れ「メリメリメリッ」と音がしたかと思うと、津波はいとも簡単に自宅とお店を真っ二つに切り裂いてしまいました。
御主人はお店の屋根の上に、奥さんはお隣の奥さんと二人で自宅2階のロフトにいながらにして別々のところに流されてしまいました。
屋根の上は雪が降り凍るかと思うほどの寒さ・・・・
御主人は地震の時仕込みの最中でしたので、半袖に短パンとサンダルという格好です。
寒さに耐えきれず雨樋を伝って家に入ると腰までの水・・・その中で水に浮いた店のワインを飲みながら寒さを凌いだそうです。 でも目の前には重油に火が付いた木ぎれが流れてきて・・・・「これで終わった」と覚悟しましたが、延焼せずに助かりました。
夜が明け、100m先の唐桑鹿折駅に人影が見え、3時間もかけて辿り着き、「生きてたかぁ、さぁ早く焚き火にあたれ」と言われて、ようやく火に当たろうとしたら足にとてつもない痛みが・・・
見ると足はカッパリ割れて血だらけ、そして凍傷になっていて、暖めることも出来なかったそうです。
それからは、奥さんの無事も伝わり、その駅で何人かの人と過ごしました。
目の前には被災後「宇宙戦艦ヤマト」と呼ばれる大きな漁船が乗り上がっています。
その船の中には乗組員の方々が乗船していたそうで、その方達から船の貯蔵食糧を分けてもらって飢えを凌いだそうです・・・・
何ヶ月か経って新しく店を出す決意が固まり、勇気を出して御主人は流された店を見に行きました。
そこには沢山のリボンが・・・
そのリボンは遺体があった所を示すものなのですが、
緑色が大人の男性、ピンクが女性、黄色が子供 を意味します。
「こんなに沢山の人達が俺の回りで亡くなってたんだ・・・」
それを見た御主人は
「神様に残されたこの命、何があっても大事にしなきゃいかんっ、俺は今度の『浜の家』を皆さんが笑って楽しく料理を食べれる店にする!」と決意したそうです。
私はリフォーム中のお店で小野寺さんご夫婦と夜中までお話しました。
「お父さん、カウンターに入ってみてよ」 と奥さんが言うと照れくさそうに御主人がカウンターに立ち「やっぱりココに立つとエネルギーが溢れてくるねぇ」と言いいながら、スッと料理人の顔に変わりました。
奥さんは私に
「鎌田さん、私の夢はね、『浜の家』のオープンの日に昔の近所の人と支援物資を下さった方、店のオープンを助けて下さった方に集まっていただいてね、『上を向いて歩こう』を一緒に歌うことなの」
と『涙』を輝かせて話してくれました。
★ゴミの分別作業
今回の作業は個人宅の瓦礫撤去だけでなく、その瓦礫やゴミを捨てるゴミ集積所の分別作業に2日間取り組みました!!
大島の対策本部から指示された作業は田中浜という大〜きな浜に大島の瓦礫やゴミを捨てる集積所があって、その大量のゴミの山を現地の作業員の方々と分別しシステム化してくれというのです。
行ってみるとなんとまぁバカっ広い浜辺のあちこちにごっちゃりとゴミの山が・・・
そのゴミ山を『燃えるゴミ・燃えないゴミ・木ぎれ・鉄くず・瓶缶・電化製品・漁具・・・等々』10いくつに分類するのです。
でも、分けても分けても次から次へトラックがやって来て分別していないゴミを置いていく・・・気が遠くなるような作業です。
ただし、ちょっと自慢させていただくと・・・実は『鎌田組』はメチャクチャ作業が早く今回対策本部でも有名になったくらい。
私は本来、舞台で何十人も動かす仕事をしていますから、作業を段取るのに慣れています。 その上みんな手が早く、女性も男性並みに力があって「被災者のためならどんなこともやり抜く」の精神で動きますから、みるみるゴミ山が整理されていきます。
ただ、ゴミと言ってもどれも被災者の皆さんにとっては大切な思い出の品ばかり・・・
それを想うと何も出来なくなるので、みんな心にシャッターをし、ひたすら作業に集中しています。
そんな時一つのプラスティックが入っているごみ袋を掴んだ拍子に、中に入っていた子供のおもちゃがいきなり鳴り出しました。
幼児が乗って遊ぶおもちゃの車のようで、可愛い曲を奏でています。
曲を聴いていると思わず涙が込み上げてきて・・・
でも心を鬼にしてゴミ山に投げました・・・が、ゴミの中で、泣いているかのように曲は止まりません・・・みんな、それを聞きながら黙々と作業を続けました。
現地の作業員の方・・・
勿論、彼らも被災者です。家が流され仕事も解雇され、でもなんとか生計を立てるためにと、毎日毎日この浜で日差しのきつい中、ゴミや瓦礫と戦っているのです。
そして何故か年配の方が多い・・・。
彼らも初めは『どこから来たボランティアだ?』と遠目で私達の様子を見ていました。
でもダンプされるゴミの中にも平気で入っていくだけでなく、 ゴミを運ぶトラックまで一緒に運転する私達の仕事ぶりを見て「なして、そこまでやってくれんだ?申し訳ないなぁ・・・」と、わざわざ差し入れまで買ってきてくれて。
すっかり意気投合しゴミ山の前で一緒に地べたに座ってお弁当食べながら、彼らと話す時間。
それはそれは忘れることの出来ない貴重な時間でした。
一人の元漁師の方が「俺はペルーの国がホント好きだったなぁ」と、マグロ漁船に乗っていた頃の話を懐かしそうに話してくれました・・・
でも、それもほんの何ヶ月か前のことです。
日焼けした顔に白い歯が光って、その笑顔が本当に切なかった・・・
帰りは監督のおじさんがフェリー乗り場まで送りに来てくれ
「あんた達のお陰で今日は今までで一番楽しい日だったぁ、ありがとう!わしら毎日ここにいるからいつでも会いに来てけろ」と涙を浮かべて・・・・
笑った笑顔をつたう涙・・・今回私はこの表情に何度も出会いました。
震災から3ヶ月経ち、悲壮なつらい表情を浮かべる人は殆どいなくなりました。
しかし、遅々として進まぬ復興に疲れ果て、でも前に進むしかない・・・自分の中の悲しみや苦しみと向かい合うより笑い飛ばしていた方がまだ楽だ・・・とばかりに、笑顔を見せてくださっているのでしょう。
でも、ふと琴線に触れた時に流れる涙は、本当に悲しいものでした。
浜の家さんとはまた違ったこの『涙』・・・・
この『涙』を止めるためには、私達は何をしてさしあげたらいいのでしょう。
一体いつ、誰が・・・・止められるの?
私に出来ることは「また来たのか?」と言われても被災地に行き続けること・・・そして一緒に話をしながら汗を掻いて働くことしかない、と決意新たに大島を後にしました。
★『うを座』のレッスン
また今回、新しい目的として震災後初めての『うを座』のレッスンを敢行しました。
どの学校も20日間以上遅れて新学期がスタートしたため、試験と部活で生徒達も大忙しです。
しかも今までのレッスン場はどこも流されていたり避難所になっていたりで場所がみつからない・・・・スケジュールと場所がなかなか決まらず、一時は諦めようとしましたが、御父兄からの要望もあり『うを座』スタッフのお宅の広い居間を借りてのレッスンとなりました。
久しぶりに踊りや歌を楽しむ子供達の笑顔は、私達の昼間の作業の疲れを忘れさせてくれました。
体全体で喜びを発散していて、ダメ出しを聞く目も今まで見たことの無いような真剣なまなざし・・・・子供ながらに踊りたい、歌いたいと言う気持ちを抑えていたんだなぁと実感・・・。
それを見た座長も御父兄も目を潤ませ喜んでくださり、今後も救援隊で伺う度にレッスンして欲しいとの要望をいただきました。
そして、もう一つ『うを座』への支援プロジェクトが進んでいます。
この夏休み、同じ『CARE-WAVE AID』に出演していた徳島の子供ミュージカル劇団『夢創り』の公演に『うを座』の子供達を招待し、合同公演を実施しようというプロジェクトです。
徳島からバスをチャーターして気仙沼に迎えに行き、交通費も滞在費も徳島側が負担して、稽古中も子供達をホームステイさせて『夢創り』の御父兄達が面倒をみるというものです。
作品は『夢つむぎの詩』。
10年来、両劇団を私が振り付け指導しているために、以前この作品を両劇団で別々に上演したことがありました。
まだ、気仙沼側の学校の遅れもあり、どうなるか決定していませんが、役として出演しなくてもテーマ曲だけでも一緒に舞台の上で歌えれば・・・と、願っています。
そのお稽古も含め、これからの『CARE-WAVE気仙沼救援隊』は1日中、大忙しです!!
★南三陸について
また、今回1日延長して何人かと南三陸の被災状況を視察してきました。
南三陸と言っても。町村合併されていて志津川・歌津町を南三陸エリアと呼ぶようで気仙沼から車で15分程度の隣町です。しかし途中の橋が落下し迂回して約1時間かけて行ってきました。
気仙沼に比べるとメインの志津川町駅周辺の倒壊した民家や瓦礫もある程度撤去されていたように思われます。
しかしあえて志津川から歌津町までの海岸道を車で走ってみると全くの手付かずの状況。
気仙沼もそうですが、あくまでTVで見慣れた地域はどこもメインエリアあり、それ以外の沿岸地域の被災は延々何十キロもの広範囲に及び、ボランティアや自衛隊の手が回らないまま3ヶ月放置されている実態がよくわかりました。
以前からは分かってはいたのですが、とうとう他の被災地を目の当たりにしてしまった鎌田・・・
CARE-WAVEとしてはこの状況を目にした限り、気仙沼に限定せずどんどん他の被災地にも伺いたいと思ってしまいます。
でも、手広く活動することも大事ですが1箇所に集中し、最後までお手伝いすることが今のCARE-WAVEには必須!!ですね。
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今週月曜日に申し込みの受付も開始となった5月開催のワークショップ「CARE-WAVEマラソン」の講師をつとめるメリー・アンが、CARE-WAVEからのインタビューに答え、ブロードウェイでの慈善事業への関与、前回来日の思い出や、次回5月に向けての思いなどを語ってくれました。